「月日の紋」の始まり

 
                                月日の紋

                            本紋章ハ明治六年ノ頃、制作
               月日の扇・・明治20年頃、○原町大教会でおつとめにつかわれたもの
                         「月日の紋」の始まり

 教祖は、かぐらづとめ人衆の着衣に「月日の紋」12弁の菊の紋章を付けることを、早くから言われていたようだ。
 それは、明治8年に安堵村の飯田岩治郎(文久3年入信の善六の子)18歳の時に手伝わせて作られたのが、
 はじまりであるようだ。
 その時の事は、「この御紋の数と御用いなさるる時とは御話ありたれど憚るところありて之を略す。
 用いる時来て思い合すべし」と、『飯田岩治郎御伝記』一瀬幸三・初子 s63・5/30 には誌るされている。
 この明治8年前後には、かなり重要なみちすがら(事歴)が集中している。その主なものをあげるとー

       1 M6 かんろだいの雛形作成 
       2 M6・10・26 「刻限」明治20年正月26日から働くことを暗示(筆3-73/74) 
       3 M6・11.14 神道的国民教化(三条の教憲)巡回説教 於屋敷内?
       4 M7 「赤衣」召される
       5 M7・5 かぐら面作成
       6 M8・5・26 ぢば明かされる
       7 M8 奈良県庁へ教祖と辻(秀司代理)出頭
       8 M8・8・28 こかん出直
       9 M8末 三年かかって中南の門できる

 飯田は、門屋の普請の時は、母子共にお屋敷に住込み、その手伝いをしていたが、岩治郎はこの普請進捗につれて、
 度々身上(病気)のお知らせを頂いている。
 「さあさあやまいではない、かみがいへをつくるそふじをするのや、あんじるでない、さんげせいさんげせい。」
 「さあさあ、かみがいへをつくるのや、いまはしらのあらきとうりようや、そうじせねばいかん。」

 また、「さあさあよくきけ、このものはかみのやしろにもらいうけるぞ、かみのにんそくやしろ(人足社、教祖の
 啓示ブレーン)とさだめるのや、けふよりべつのなべをたべさせ、けふよりこころをにごすでないぞ・・・」と教祖は言った。

 このたびハもんのうちよりたちものを はやくいそいでとりはらいせよ
 すきやかにそふぢしたてた事ならば なハむねいそぎたのみいるそや
 しんちつにそふぢをしたるそのゝちハ 神一ぢよで心いさむる 筆3ー1〜3 

 また、こかんさんには、月日よりやしろとなるを二人とも べつまへだてゝをいてもろたら 筆9-5 と言われ、
 こかんが櫟本から早くお屋敷に戻ってきて、教祖と二人して神の御用が出来るよう、先ず、門とそれに続いた住居と
 倉(窓無し?)の普請を望んでおられたが、結局は、門屋の如き規模になったと言われている。
 取り払いの建物とは、秀司先生の私的建物か、或いは、高山の説教に使ったというつとめ場所も、
 その対象になっていたものか?『復元』37号p90参考

 本題の「月日の紋」に話を戻すと、稿本天理教教祖伝では、教祖は、明治14年増井りん等に12弁の菊の紋作成を
 命じになっている。
 また、それを当時5歳の中山たまえをして居合わせた人々に頒けさせた、とある。
                        (『誠真実の道・増井りん』道友社新書26 「十二菊の紋のこと」p91参照) 
 当時は、菊の紋章は、皇族以外使うことを許されていない。
 明治元年3月28日大政官布告第195号に引き続き同4年6月17日布告2085号では、類似のものもよろしくないという
 極めて厳しいお達しが出された。
 元来、皇室は16弁の菊であり、教祖は、1年12ヶ月を意味する12弁の菊であったのだが・・・

 古来、中国では菊は太陽を意味するという。「月日の紋」とは、天輪すなわち中心部が月輪、外が日輪を現わす。
 また、おつとめの扇は、もともと月日の絵が描かれていたようだ。
 みかぐらうたに、“夜昼どんちゃんつとめする”の手振りは、月日が交互に顔を出すしぐさをする。
 月日が、夜と日を分けて、自然の摂理が営まれている。

 その月日の恩恵は、人の生死に関わる絶体のものである。
 親神は、自らの呼称を、かつて“てんりんおうのみこと”天輪王命と呼ばせたのも頷けるのである。 
   (丸に梅鉢の現在の教紋は、昭和16年3月31日制定の教規によって定められた。参考まで。)