我 孫 子 事 件


  明治15年(1882)9月中頃、和泉国泉北群豊中村我孫子(現、大阪府泉大津市 我孫子町)で、
 一つの刑事事件が起きた。いわゆる我孫子事件である。
  この豊中村に住いしていた○○岩松(21歳。新聞では岩吉)なる人は、前年10月頃信貴山詣りの
 途中、病気に罹り、ある人のおたすけを頂き、天理教の熱心な信者となった。
 そこで、同村の△△豊次郎(18歳)をさそって、翌15年7月おぢばに帰参、この時、両人は
 教祖から御幣の神実様(新聞には、悪病除けの御札)を頂いた。岩松は、これを丁寧にお祀りし、
 病人がある度に祈願をかけると、不思議にたすかったので、生き神様のように評判された。
 一方、豊次郎は御幣の始末に困って何気なく風呂場で焼き捨てたという。

  折しもこの時、コレラが全国的に流行・蔓延した。これに罹患した豊次郎は、岩松におたすけを
 乞うた。あちらがぷくっと膨れ、こちらがぷくっと膨れ、その膨れが身体中を動くので、痛くてたまらない 
 “早く 切ってくれ!”と懇願した。岩松は「お前は取り返しのつかんことをした。生き神を焼き捨てた
 罪は逃れられん。お前の身体の中にはコレラ菌が入り込んでいるから、それをとり除けてやる。」
 と言って、豊次郎の親族や信者の前で、本人の頼みに従って体中を移動する瘤状のものを剃刀で
 あちこち削いでいった。その切り取ったものが平鉢にいっぱい盛られ、現場は惨状と化したが、豊次郎も
 居合わせた人々も“なむ天輪王命、なむ天輪王命”と唱える中、彼は絶命したという。

  岩松は、直ちに殺人容疑で逮捕され、検察送りとなり、正式な裁判を受けたが、審理の結果、
 不思議にも無罪の判決が下った。
  これが「大阪朝日新聞」M15,9,30や地方の新聞にも取り上げられ、人々は驚いて教祖に尋ねたところ− 
 「さあさあ海越え山越え々々、あっちもこっちも天輪王命、響き渡るで響き渡るで」とのお言葉があり、
 これを聞いて一同は、辛うじて愁眉を開いたという。
  この事件の起きるほんの数ヶ月前、お屋敷(ぢば)では、教祖念願のかんろだいの石が官憲に
 よって取り払われている。また我孫子事件と併行して、9月9日節句の夜、同じ大阪で泉田籐吉が
 熱心のあまり警官を相手に激論していた。
 同時刻に教祖はー 「さあさあ、屋敷の中屋敷の中。むさくるしいてならん、むさくるしいてならん。
 すっきり神が取り払うで、取り払うで。さあ十分六だい何も言ふ事ない。十分八方広がる程に。
 さあこの所より下へも下りぬもの、何時何処へ神がつれて出るや知れんで。」と仰せられた。
                                    (「稿本天理教教祖伝」P237〜241)

  この我孫子事件と泉田の両事件が痛く警察を刺激して、大阪府から奈良警察署へ
 指令が届くことになる。
  「神降又ハ稲荷下ケノ類ハ、豫テ不相成旨布達モ候処、近来、天輪王ノ命ト称シ、之ヲ信仰スルモノ 諸人 
 ヲ集メ、神ノ告ケ杯ト怪異ノ説ヲ唱ヘ、人ヲ眩惑セシムルモノ有之、既ニ和泉国泉郡豊中村ニ於テ人ヲ死ニ
 致シタル義モ有之候條、各署ニ於テ一層注意シ、右等衆ヲ集メ、眩惑セシムルノ処為アルモノハ、
 布達(和河泉ハ旧堺県明治十三年甲弟二十四号)違背ノ廉ヲ以テ処分可致、
                              此段及通達候也   大阪府警察部長 大浦兼武」

  すなわち、教祖の御言葉からすると、金剛山地福寺配下としての転輪王講社も蒸風呂兼宿屋業も、
 官憲の手で取り払わせるしか取り払いようがない、神がさせているのだと諭しておられる。
 我孫子事件のように、一見教理の取り違いのために種々の迷信が行われているとした当時の見解に
 対して、お言葉では敢えてそのようには指摘されていない。しかし、社会(官憲)は言うに及ばず、
 お屋敷(本部)でも地方信者の粗野な行動について対策を講じる必要があると考えたようだ。その実、 
 お屋敷では護摩を焚き、その他の人策も加わり、応法の道を余儀なくしていた。

  他方、社会に対して教祖は、既に明治7年に「うしのさきみち」牛疫をコレラの前触れとして予告
  いままでのうしのさきみちをもてみよ 上たるところみなきをつけよ ふ4-18
 果たして、その後明治15年に、上・高山への警鐘としてコレラが流行した。
  せかいにハこれらとゆうているけれど 月日さんねんしらす事なり  ふ14-22
 以上のことから、神の心は、単なる個人の迷信的行動の指導よりもうち(お屋敷)とせかい(社会・上)の
 2大両極に対する指導に重点が置かれていたようである。何とならば、それは「にほん」に「こふき」 という  
 確かな拠所を打ち立てる必要があったからであろう。
  にほんにもこふきをたしかこしらへて それひろめたらから(世界)ハまゝなり   ふ10-88                               
  およそ、この明治15年頃のお道の状況はどんなであったろう?もともと教祖は、明治20年の正月から
 より積極的に働きに出る予告をされていた(ふ3-73〜74)。
 それは、教祖が115歳在世を前提に考えられていたたすけのシナリオである。
 すなわちお道は、世界救済の75ヶ年計画を持っていた。その75年計画も、50年目からさき25年の間が
 勝負であったようだ。天保9年立教の年から準備期間としての長き50年の艱難辛苦の道を通り抜けて、
 明治20年から太陽が東の山から昇る如く、道はいよいよ世界に躍り出ようとしていたのである。

  かたや,世上は明治という政権確立の時代に向かって、音を立てて突き進んでいた。この人間らしき 
 歩みに対して親神思惑の道が明治20年から本格的に杭い込んでいこうとしていた。しかしながら、
 その50年の準備がまもなく完成しようとしていた明治15年5月12日(旧3,25)、二段まで出来ていた
 念願のかんろだいが官憲によって没収されるという大きい節に遭遇した。かんろだいこそ、この上・高山の
 意識改革のために準備されていた神の手立てであった。これが実現すればいかなる者も疑うことが
 できないものであった。だが、長き45年連れ通した道を、一部変更のやむなきとなり、教祖は
 立教50年の「刻限」に合わせるかの如く、25年先の生命を縮めた。生命を縮めるというと、ネガチブな  
 感覚になるが、この仕事はよりポジチブな働きを意味している。

 それは、次の2つのお言葉が端的に物語っている。
  「..この何度も上からとめられるのは、残念でならん。此の残念ははらさずにおかん。...
  こんどハ、たすけより、残念はらしが先...」   明治19年3月12日 お言葉 山田 伊八郎文書
  「これが世界のひよろつき、これよのひながた」昨日、親様御湯殿より御出ましのとき、
 ひよろひよろとひよろつきなされしハ       明治20年元旦(旧12,4)  初代真柱手記
  この2つの教祖の言葉は、おふでさき17最終号の内容と一致している。
 さて、この残念のはらしを如何にするかについては、おふでさきに次のように述べられている。
  このかやしたいしや高山とりはらい  みな一れハしよちしていよ    ふ6-115
  このはなしなんとをもてきいている  てんび火のあめうみわつなみや    116 
  こらほどの月日の心しんバいを    せかいぢうハなんとをもてる       117 
 「海は津波」という言葉からして「火の雨」は、天変地異を指しているにちがいない。
 残念をはらすとは、この世を身体とする親神が異常な働きを 見せることによって、道の遅れを取り戻す
 ということであるようだ。

  しかし、親神が何をどうするにしても、うちなる者が社会の圧迫を水面下でぢっと耐え、道の核心を
 見失わずに、いつかその時が到来したら、たすけに及ぶという深慮遠謀を持っていなければならないで
 あろう。よく引用される神言(おさしづ)である
 「三年千日」  さM25,6,4 も  「道の辻で会ってもにをいがけ」  さM40,4,7  も
 前者は、ここまで積み上げてきたからにはアト3年勤めたら大台に乗る、後者は教友は心倒さず、互いに
 励まし合え、というのが本来の意味ではなかろうか?
 しかし、歴史が示すように、そのような「天変地異」 という親神からの直接的働きかけはなく、社会変動
 (戦争)の紛糾の中から、「はらし」を実現されたように悟れる。

  時代は変わり、世の中は、核家族化の進行、産業構造の変化、経済の急成長、サラリーマン所帯の
 増加、都市部への人口集中、高齢化社会等の変遷により、当然の事、教友達もこの影響を受けて、
 教会との繋がりが希薄になっていった。
 今、教祖120年祭を控えて、地域活動の推進による連帯の重要性が叫ばれている。
  しかし、お道本来の出現した意義に立ち帰って考える時、いつも社会的変化に身をまかせておいて
 いいのであろうか?その社会問題を根本的に解決しようという意図もなく、社会に翻弄されていていいので
 あろうか?

  その昔、教祖が在世していて、ぢばを中心に、親神の人類創造の目的「陽気ゆさん」づくりに着手された。
 75ヶ年計画の中で、地方の信仰者は、その大いなる救済計画の一環として、要するにマンツーマンの
 おたすけ活動に邁進していた。中心の大いなる存在と展望が、地方の人々の信仰を奮い立たせていた。
 真に「ぢばありて世界おさまる」「ぢばは一人立ちしている」の言葉通りであった。
  我々は、教祖が積み重ねてきた立教45年当時のような確かなる「足場」に立っているであろうか? 
 教祖は、我孫子事件も泉田事件も道の肥やしのように考えていたのである。
 
 参考
 1,『天理教高安大教会史 上巻』S2,4,24 芦田義宣編 P89
 2,『改訂 正文遺韻』S28,2,26 諸井政一編 P70
 3,「教区制度百年 その歴史と役割について」みちのとも2002、7 金子圭助 P8        
              



          この場所(当時の建物か分からない?)で事件が起きたと伝わっています。

                              

                                                                 




                                                          

     「大阪朝日新聞」  明治15年9月30日付     

       我孫子事件の模様が詳報されている