いわゆる「半牧之御筆先之歌」

  中山正善二代真柱は、著書『こふきの研究』S32道友社 の中で、小松本十八年本の“半牧之御筆先之解”について次のように解釈している。
  此お歌は、人々の口によく伝えられるもので、“十七号の止メ”と云われるものですが、事実はありません。口伝えでありまして、どうも本当に伝わったも
  のではなく、何処かで伝え違いされたものと考えられるのであります。・・・

  此小松本は段々と年が下るにつれて、教祖のお話との陰にかくれて、種々な余雑部が混入し、却って御主旨を乱して了う憾みのあるよい例で、“明治二十年
  以後ノ古記ヲ貫書ス”との註書が、その点での実に貴重な役割を果たしていられると存じます。 と述べている。この小松というのは、小松駒吉(慶1〜昭9、
  御津大初代)のことで、高弟の一人である。
  しかし、この歌のルーツを色々と詮索すると、沢山の資料に記録されていて、そんなに簡単に判断してはならない事がわかる。その資料の主なものを
  次に挙げるとー

 1 改訂『正文遺韻』編集 諸井慶徳 S28,2,26 道友社 P46 御筆始
 2 『天輪王明誠教会と奥六兵衛先生』小山勝三 S58,7,22 私家版    
 3 『おふでさき講習会録』みちのともS3,11,20 天理教教義及び史料集成部編纂 道友社 P112   同内容ー『復元』第37号 S37,4 P100
 4 『増野鼓雪全集』第五 増野道興 S4、3 鼓雪会 p195 おふでさき 
 5 『天理教小史』高野友治 s55、9,1 道友社 p76 
 6 『山田伊八郎文書』敷島大教会編 s49,4,8 p74、p258 道友社 『御教祖様御言葉』

  この中から6の最も確実とも思える教祖の自話を紹介すると、明治18年4月3日(旧2.18) 山田伊八郎せきにて金玉いたみ、神様参り、神様御噺し

  このよふハ、もんじゅふとハ、たべもん きもの。ふげんをとハ、風 人間いき。はしめとしみよふなりうじんもとハ、りゆけの事。なんがくとわ、
  火なん水なん風なん病なん。てんたいとわ天がだい。よふめいもみなこれ。しよどごしたもとわ、世界中 百姓一れつに 火なん水なん風なん病なん、
  なしにして、年々に豊作ヲとらせ。亦人間も出生してから、ほふそ、はしかせんよ、病なしにして、百十五歳迄、極楽じょどいつれてとふりたい。
  其上ハ、けゑこふとおもうなら、百十五が二百三百までも、ふんばりきる。ゆハんやわれらわをろかなる。
  いかにねがわにありぬべし。三千世界をとわ、人間のおもう事ハ、口でゆふ。口でゆふ事ハ手でする。是が三千世界とゆふ。おいでぞ、
  たしかに しょじふ みさだめて、心ちがいのないように。

  この話から、解説の部分を除くと、「この世の文珠普賢をはじめとし、妙な龍神、天神も、南学、天台、陽明も、これみな浄土を期(ご)し給う。
  ゆわんや我らは愚かなる、如何に願わにありぬべし、三千世界を仰いてぞ、たしかに清浄見定めて、心得違いのなきように」と、
  通常に伝えられているものとなる。 
  この歌は、小松本にもあるように「十七号の止め」ともいわれ、教祖が自から書いたものは、現在のところ目に触れられていない。
  恐らくは、教祖が話したところを側近の者が筆録したものと思う(教祖は「おふでさき」以外は、親神によって筆取り禁止されていた模様)。
  さて、この歌が、原典といわれる「おふでさき」に何故出てこないのであろうか?
  すなわち、この理由を解明することが、親神と教祖の微妙な関係を知ることになるのではないだろうか? 

  いまゝでもどのよなみちもあるけれど 月日をしへん事わないぞや
  月日よりたいてへなにもだんだんと  をしゑてきたる事であれども  ふ10-42、43

  この世が創造されて、お道が始められる以前に、聖人・賢者といわれる人を生まれさせて、その人たちに入り込んで、いろんなことを人間に
  教えさせたといわれている。
  ところが、聖人・賢者の教えというものは、庶民が直接聞き、用いて生活に役立てたかというと、必ずしもそうではなくて、一般にはなかなか
  難しいところがあるので、上という上に立って庶民を導いている人たちがまず学んで、それによって世界の人々を導いてこられたようだ。
  しかも、話を戻すと、その昔、インドの国に、そこに十柱の神様のお一人なり、あるいはそれにいんねんある魂が生まれて、親神様はそれを通じて
  お話になる。

  そうすると、教祖(きようそ)という人がそこにでてくる。その教祖という人が勝手に話をするのではなしに、親神様が勝手にお釈迦さんの口を通じて
  話をするのでもない。
  親神に教祖という人が相談をして、みな教えというものを教えるようだ。
  なぜそうするかといえば、元来人間はさまざまな風土に生きている。
  暑いところもあれば、寒いところもある、海岸もあれば、草原・山岳地帯もある。全部一緒というわけにはいかない。
  そこに住んで文化と伝統ができてくる。その風土と伝統と人々の心、この3つを考慮して、教祖と親神が相談をして教えというものが出てくるのではなかろうか。
  
  それからハたしかせかいを初よと 神のそふだんしまりついたり  ふ6-39
  このように、中山みき教祖の場合も、親神と教祖の相談によって、教祖の表現(信仰)を親神は尊重されたといえるので、この“もんじゅ・・・”にかかわらず、
  親神の核心の部分と時代に生きる教祖の人となりを見せてもらうことによって、この「お道」の真の姿が了解できるのではないかと思われる。
  その上に立って、「究極の教え」を考える時が来ていると思う。

  どのよふな事をふしへてかゝるのも もとなるをやてなくばいかんで
   いまゝてもなにをふしえてきたるのも みなこのどふりはじめかけたで
   にんけんをはじめたをやがも一にん どこにあるならたつねいてみよ  ふ8ー73、74,75

 補足 1 半牧は半巻では? 昔は巻紙文書の読み書きは半巻きにして読み書きした。
     2 奥六兵衛(嘉永3年〜明治44年)は、明治14年、教祖から「明誠」の講名を貰う。明誠とは、月日の言ば成りという。
     3 参考 「みちのとも」R166 11月号 信仰と楽しみ 芹沢茂    

                                奥六兵衛の筆による教文(おしえふみ)

                      教祖様御言葉 山田伊八郎文書より