3人の人足社と言われ中の1人、乙木村の山本吉五郎
                         (他の人足社は、安堵村の飯田岩次郎、上田ナライト)


  ご存命の頃(高野友治著)転輪王講社事件に出てくる山本吉治郎の子、吉五郎は幼名を亀之助と言った。
  明治13年余り迫害が激しくなるので、秀司先生は乙木村の山本吉治郎の勧めで、金剛山地福寺の転輪王如来を祀り、布教認可を取ろうとした。
  余り反対が激しいので、山本吉治郎が「天理王命がない神様で警察から止められるなら、天輪王命としたらどうだ。
  天輪王というのは仏教にチャンとある。大日如来即ち、太陽のことだ。天輪王命としたら警察も叱らんやろ。」と申し出たのである。
  この山本吉治郎という人は、明治初年に息子の吉五郎(当時は亀之助)が神経病で仕事もしないで遊んでいたのを助けられ、
  親子三人熱心に信仰していた。
  後、吉五郎さんは転輪王事件で懲りて以後信仰を中絶したが「人足社」と神様からいわれたほどの理のある人であった。
  何故、山本吉治郎が金剛山の日暮宥貞を知っていたかというと、彼は金剛山地福寺の初穂のいはば周旋方であった。