今回は、当時の新聞の記事を現在の文字に直して、読みやすくしました。

 
            【資料】大阪朝日新聞 明治15年9月30日
         
   お道の事が、はじめて報じられたのは、明治14年(1881)7月17日の大阪新報と言われていますが、それは地方の噂話としての程度でした。
  ところが、その翌年「我孫子事件」として大阪朝日新聞に大きく取り上げられました。

             以下は、その記事内容です。

  「その愚は笑うべく、その状は憐れむべし。府下和泉国和泉郡我孫子の荘、宮村に鎮座まします穴師神社と申すは、同荘七ケ村の産土神にて、
  俗説この神を信ずれば力あくまで強くなるとて、力士なぞの願いをかけるもの多し。

  然るに例年コレラ病といえば、この宮村より発し、同荘に蔓延し非命に倒れる者、沢なるを以って同村のT(記事は実名)徳治郎の
  舎弟岩吉22歳という壮年配、只管之を患い、こは全く名人敬神の道を知らず、神に非礼を加えるより甚だしく神を怒らせ玉い、斯くは人々に
  災いする。
  なれば、必ず謹みて信心すべきなりと村民を諭しなどしておりけり。

  斯くて、当春の事とか同荘池浦村のS(記事は実名)伝次郎の次男豊次郎18歳というが遊びに来たりしを強く勧めて、足曳きの大和国字国中に
  安置せる天輪王之尊に参詣し、共に悪病除けの御札を受けて帰り、岩吉は之を荒菰(アラコモ)の上に恭しく崇め祀り、清水を捧げ洗い米を
  供えなどしつ無暗矢鱈に信じおりし処、誰が流伝せしものか、岩吉も宅に祀れる天輪王之尊を信仰崇敬する輩は何に寄らず一つの願い事を
  聞き且つ、悪病を免れる事疑いを容れずとて、ここに歩を運ばせて加持を頼み、祈祷を乞いなど愚に惑わされる輩の日一日より加わりけり。 

  さて初夏の候ともなりしが、彼の宮村の中よりコレラ病の発し日に患者の増すにつけ、同村の者共額を集め、如何にしてこの災いを払はばやと、
  常に力士の外は詣るものなき穴師の神社にて神を勇めるためにとて、本月二十一日より三月の間、祭典を行い神楽を奏しけるが、その月より
  老若を論ぜず男女を問わず、社内に集い神の御前に群がり祈念する者夥しく、その帰路に歩をまげてTの宅に立ち寄り天輪王之尊に参拝する
  ものあり。

  彼の豊次郎も同家に立ち寄り、この群れの中にありて頻りに額をつきて尊を拝みおり、当日
 岩吉は白衣を身に纏い、ものものしき出で立ちにて上座に占めおりしが、やがて豊次郎の相貌を
 見て、青き息を吹き、ああ危ういかな、危ういかな、今つくづくと貴公を相するに、突然コレラ病の
 発し果敢なく命を落とすの色あり。  

  されども貴公は我が天輪王を日頃信じるを以って、之が治術を施しなば、万に一つ危うき命を遁るるべし、兎にも角にも天輪王の指揮に従がい、
  療治を施し得さすべきかと言えば、この席に列席者は元より、豊次郎は大いに驚き、今日ここに詣でずば命を失うべかりしに、歩をまげたるが
  大いなる幸福疾その治術をなし玉へ、あら有難き尊やと、うなじを垂れて座を通う。

  そのとき岩吉は“いでいで”と言いつつも襷を十字に綾取りて、豊次郎の辺へ出で来しかば、人々口を開き、首を伸ばし、そのせん様を
  見てあれば、岩吉はやがて豊次郎の二の腕を手拭いにて堅く括り、剃刀を持ちて腕を一寸〔約3センチ〕計り切りしかば、何かは以って堪るべき
  鮮血淋璃として流れ出て、その痛みさへ烈しければ、豊次が身をもがき苦しむを岩吉は更に意となさず。

  この鮮血を出さずば、到底命は保たじとて、果ては参詣人に手伝わせて甚だしく身体を柱に縛りつけ、祝詞を上げながら、今度は出刃包丁を
  以って鶏の料理をする如く、肉を削ぎ最も残酷な治術を施すに誰とて之を怪しむ者なく、却って疫病神をはらすなれど、苦痛のために
  泣き叫ぶをも頓着せず、八方を取り囲みて荒き療治をして居る折柄、このことを早くも聞き込みけん豊次の父伝次郎及び、近村なれば
  大津村の警察署より巡査五名駆け付けられ、現場に臨みて、之を見るに憐れむべし、豊次は血汐に染まりて、既に息絶え居り、父の伝次之を
  見て、咄嗟と計り死骸の上に伏しまろび、前後も知らず泣き悲しみ、何咎ありて倅をこのように切り殺せしぞ。

  元のようにして返せ。アラ恨めしの岩吉殿と絶ち入るばかり嘆くにぞ。
  警官は左もこそと直ぐ医を招きて療養を加えしが、今更その験なければ死骸をそのまま下げ渡されぬ。

  さる程に警官は岩吉は元より之に係りし宇右衛門及び重蔵という者、その他十名ばかりの者共を数珠繋ぎに縛りて警察署へ拘引し、
  今猶取り調べ中なりと、その挙動如何にも奇怪にして、若し故意なければ狐狸のために化かされたるものか、何にしても怪しき限りなり。」         
  この記事だけを見ますと、お道の信者は、極めて迷信的、オカルト的に扱われていて、その記事の中に埋没されそうです。

  『稿本 天理教教祖傳』第9章・御苦労(P240)には、次のように誌されています。
  「この頃、大阪府泉北郡で、信仰の浅い信者達の間に、我孫子事件が起こって、警察沙汰となった。
  当時お屋敷では、人々が大そう心配して、親神の思召を伺うと、
  “さあ海越え山越え、海越え山越え、あっちもこっちも天理王命、響き渡るで響き渡るで。”
  との事であった。これを聞いて、一同は辛うじて愁眉を開いた。」 

                        注) 〔新聞記事のイラストは、当時の事件現場の描写です。〕