安堵(あんど)の水 と (あずま)

 
  天理教の歴史の中には、「息のさづけ」「神水のさづけ」「肥のさづけ」等種々のさづけが出されている。
  さづけとは、一般にそれを貰った者が、病む人の身上に取り次いで神のたすけを願うもので、現在、
  教会本部では、定められた九度の話(別席)を心に治めて授けられる「てをどりのさづけ」のことを
  「(お)さづけ」と言っている。

  しかし、教祖在世の時と、飯降伊蔵本席の時代には、種々のさづけの他に特別な2カ所の「井戸の水」による
  たすけも示された。
  種々のさづけの方は、人の心を見定めて渡されるものであるが、これは井戸という地を定めた特別なものであった。

  一つは、教祖在世の文久年間の安堵の井戸であり、あと一つは飯降伊蔵本席時代の
  明治24年東京で定められた井戸である。
  安堵の井戸とは、文久3年(1863)年12月10日、お道が始まってほぼ25年経った頃、教祖は、自ら大和国生駒郡
  安堵村の素封家飯田善六氏の子、岩治郎氏の腹痛のたすけに赴いた時のことである。

  小人岩治郎氏はたちまちに元気を取り戻し、教祖は何日か滞在したある日、屋敷内の
  いくつかある井戸の一つを定めて、小人岩治郎氏に「水のさづけ」を渡した。

                         その時ー

 “このしやに(小児)にはみづのさづけをわたす。みづのさづけといふは、このしやうにのくみたるみずを
  のんだることなら、いかななやみわずらいもたすけるぞ、みづはごしやく(五勺、90CC)いれのつるべ(釣瓶)で
  くむべし、ごしゃくがごんごう(五合)となる。
  みちがつくのや、ごんごうがごしょう(五升)となると、おうかん(往還)だいどう(大道)となるのや、すぐに
  ごしやくいれのつるべをつくれ” という言葉があったという。
 
  又、教祖は岩治郎氏のことを「前生のおじさん」といい、将来は「人足社」としてのお役があると述べた。
  更に「さあさあこの屋敷を神水場所、水屋敷といういんねんをつけおく。」とも 話したと伝えられている。
 
  続いて翌年2月にも飯田家に赴き、教祖手作りの犬の玩具を岩治郎氏に与えた。
  そこで教祖が滞在するのと、飯田家では水のさづけでおたすけをするので、門前には連日朝早くから
  あふれるような人々が集まるようになった。

  その上、法隆寺村の山伏の取締役古川豊後守が、奈良の金剛院を随え威儀おごそかに飯田家の門をくぐり、
  問答をしかけるなど、立教25年目にしてようやくお道は大きく社会に注目されることとなり、やがてはこの地より
  大阪浪速へ道が広がる大きな足場となっていった。
 
  その後明治8年、岩治郎氏18歳の時、母子共々お屋敷に住み込み「中南の門屋」普請の手伝いや「月日の紋」
  作成の手伝いをするなど、お屋敷との縁が深くなっていったように思われる。
 
  そうした中、道が大きく地方に伸びるにつけ、これを問題とする官憲(上・高山)とのかかわりが教会本部の
  主たる課題となり、明治17〜18年ごろには本格的な天理教会設置の運動が起きてきた。
  そして大阪府へ願書を提出したが、即座に却下された。

  この執拗な官憲の圧迫とこれに対応しようとする動きが積極的に続けられたため、奇しくも立教50年の年、
  すなわち明治20年陰暦正月26日、教祖は現身を隠した。
 
  このことは、親神が広く世界に「ざんねんをはらす」ことによって、救済の力点を移したということであろう。
  その後、飯降伊蔵を本席と定めて啓示(さしづ)によって天理教は集団指導を受けることとなった。
 
  明治21年、教祖一年祭の後、初代真柱を中心に人々は教会本部設置のために、協議に協議を重ね、
  密かに安堵村の飯田宅に参集した。
  (この時の会議は、やむなく 国家神道を信奉せざるを得ないとする迎合派と、教祖の教えを絶対に守り抜こうと
  する正統派との2派に分かれたといわれる。)

  会議は、大阪府で却下されたことにより、神道本局の助力を得て、一旦東京府に於いて教会本部を設置出願し、
  許可を得た上で奈良県へ移転することに議決、一同上京の運びとなった。
  すると、わずか三日後に「書面願之趣聞届候事」と、神道直轄天理教会所が公認された。
  その申請の場所は、東京都下谷区北稲荷町42番地で、後に東分教会が置かれたところである。

  しかし、この出願に際しては、本来の教義をかなり彎曲したものを提出しているし、更にその遺訓を守ろうとする
  正当派はだんだんと置き去りにされていったといわれる。
  東京で認可を得るや、直ちに同年7月22日「天理教会所移転届」を奈良県知事宛に提出した。

  この願書は、初代真柱を筆頭に信徒総代として、市川栄吉(後の城法大二代)増田甚七氏(後の郡山大二代)
  飯田岩治郎氏(後の平安大初代)という土地の知名度の高い三人の素封家の名で出願している。
  許可を得るや、11月29日(陰暦10月26日)教会本部開筵式がおぢばで行われた。 

                        第二の井戸

  さて、次に第2の井戸について述べると、後に東大教会初代となった上原佐助氏は、明治14年、教祖の言葉により
  大阪から関東布教に出た。
  やがて「東京真明講社」を設立し、東京八講社の基礎を固めた。
  折しも、下谷区北稲荷町に天理教会所が認可され、仮開筵式が盛大に執行されるにあたり、上原はこれに
  全力を注いだ。
 
  そして教会所がおぢばに移転したあと、「天理教会本部出張所」が置かれ、翌22年10月、東分教会に譲渡された。
  その後、教祖五年祭の直後、明治24年4月1日、東分教会に本席飯降伊蔵が入り込んで「せい水のさづけ」を
  渡している。道の始まりから55年のことである。

  この様子については、「東大教会史」には次のように記している。
  〔初代(上原)は、参集した信者に筍めしを振る舞い、そのお初を本席様に差し上げた処、ご昼食後俄に
  おさしづ降下の状態となられ、初代が御前に平伏するとお言葉あり

  さあさあ この所この所、この所清水一条、もう水という清水の水を授けよう。
                                     (明治24年4月5日)

  ぢばを離れた出先でおさしづ降下は稀で、人にではなく土地所におさづけが授けられたためしはない。
  さらに、明治24年4月14日のおさしづで
  又一つ出越した処、地所という、水と言えば清水。代々変われど、重々の理に授けてあるのやで。

  「出越した処」・・・ぢばから出越した東分教会の所在する所。
  「地所という」・・・上原佐助ではなく土地所に授けたと明言された。
  「代々かわれど」・・一代二代三代と人は変わり、時代は遷っても末代かわらず重々たっぷりの理に授けてある。
 
  更に渡し方については
  さあさあ渡す処、今一時の処は一人の理に運んでくれ、生涯の理に授けてあるのやで  (明治24年4月24日)

  願い人に渡す場合、誰れ彼れ勝手に取り次ぐのではなく「一人の理」教会長が日々運んでやってくれ、教会長が
  生涯取り次ぐ理として授けてある。
  初代は、先に明治22年8月27日のおさしづでお許し頂き、旧神殿玄関左脇に井戸を掘ったが、その井戸水を汲んで
  清水のさづけを取り次いだ。

  井戸は現在、神殿上段下に位置しているが、願い出によって今も大教会長がこの水を汲んでさづけを取り次いで
  いる。
  但し、井戸にさづけが降ったのではなく、東分教会の所在する土地所に授けられたのである。

  この清水のさづけによって、東の道は関東一円に大きく伸展した。昔から江戸は、一日3000両の賄いと言われ、
  河岸の築地、寺社の浅草、花街の吉原で各1000両の商いがあったという。
  道は、この清水と「お息の紙」によって、吉原の遊女達に、築地の河岸仲間に大きく伸び広がったといわれる。

  もともと、教祖は115歳定命といい、立教75年(明治45年)まで在世の予定であった。
  高弟の辻忠作氏は自らの「教祖伝」で“此の度び存命中に、日本中、天理王響き渡らしたい、と仰有りました。”
  と記している。

  かつて、イエスキリスト自身の布教期間は、わずか3年であったことを考えると、天保9年から明治45年までの
  75年間は、人の一生の時間ほどもあり、これほどの長時間を我々人間に費やす神の思惑は、非常に親密で、
  必ず教祖一代で基礎固めを完遂するという強い意志が感じられる。
 
  この安堵の水も東の水も、たすけ一条の道の中に仕組まれていた。そのどちらも段階的に底辺の庶民から
  信仰の輪を広げて、ぢばのかんろだいつとめを中心として、地方にも拠点を置き、揺るぎない信念を高めようと
  考えられていた。

  地方の拠点としては「打ち分け場所」の話も存在する。いずれも最終決着点は上・高山が目標であったからである。

  このみちを上ゑぬけたる事ならば   ぢうよぢざいのはたらきをする  ふ10-100
  なにゆうもしんぢつなるのしよこふが みゑん事にわあとのもよふを    
  とのよふな高いところのものやとて  ぢうよしだいにはなしするなり   ふ8-87〜88 
 
  ぢばは、鏡屋敷ともいわれ、世界のこともぢばに映るし、屋敷のことも世界に映る聖地である。
  しかも、かんろだいつとめによって、不思議な「甘露水」を下され、その効能を見たとき、どんな高い処の人も
  親神の存在を、疑うことができなくなる。
  教祖の始めの計画では立教70年(明治40年)を過ぎた頃に、天から下げられる予定であった。

  しかし現実は、明治20年に教祖は現身を隠し、さしづとしての啓示は本席に移った。
  そのことが、教祖をして「存命同様の理」と呼ばれることであろう。
  すなわち、はじめに約束した教祖の話は未だ未完の道中にあるということである。

  教祖は、姿を隠す年の正月元旦(陰暦12月8日)、湯殿でよろめいた時
  “わたしのひよろつきは、世界のひよろつき”と言われた。
  これは「残念を晴らす」という表現のように、これからより積極的に自然・社会・個人に働きに出るという意味で
  あろう。
  口で述べただけでは神の深い思惑を悟ることの出来ない人間のために。

  しかし、「おふでさき」の内容には、大局的変更はないとしなければならない。
  今日でも、安堵の水も東の水も、たすけのために願出すれば、誰でもその水を頂くことができるようだ。
  フランスのキリスト教の聖地、ルルドの泉のように、多くの人々がたすけを求めてやって来ても不思議ではない。

  最後に、たすけの水について、教祖の言葉をも一つ紹介しておきたい。
  “御こふ水ハ、鉢に水をくみ、かどヘ以テでて、日様が其水の中へ御うつり被下たら、夫ヲ御こふ水
 。是にテ致事。 ”      明治18年7月19日 神様の仰せ

       
                                〔安堵の井戸へ〕          

                        〔東の井戸へ〕